09.27
2019 NEWS
2019 NEWS
パウル・バドゥラ=スコダの逝去に寄せて
マエストロ パウル・バドゥラ=スコダの逝去に寄せて
ウィーンを代表する世界的ピアニストのパウル・バドゥラ=スコダが、2019年9月25日、92歳の誕生日を目前にご逝去されました。
年齢を重ねてもなお、音楽を愛し、音楽芸術への探究心を絶やすことなく情熱を持ち続けたスコダ先生。来日するたびにその真摯な姿勢に胸を打たれ、圧倒されました。
弊社では長年にわたり日本でのマネジメントをさせていただき、2014年6月5日(木)すみだトリフォニーホールにおいて「ラスト・コンサート」を開催いたしました。
この来日ツアーが、日本で最後の演奏となりました。
スコダ先生のような素晴らしい音楽家と共にお仕事させていただいたことを誇りに思い、ただただ深く感謝するばかりです。至上の音楽を届けてくださったスコダ先生のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
パシフィック・コンサート・マネジメント
パウル・バドゥラ=スコダは1927年にウィーンで生まれた。彼の類い稀な音楽的才能はすぐに頭角を現し、さらに伸びていった。戦時中のエドウィン・フィッシャー、ハンス・クナッパーツブッシュ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのコンサートでの忘れ得ぬ演奏が、バドゥラ=スコダの音楽家になろうという意志をさらに強めた。彼がその演奏で感銘を受けたのは、素晴らしい解釈もそうだが、それ以上に、その音楽の持つ倫理的な力の存在であった。
1945年、バドゥラ=スコダはウィーン音楽学校に入学。その僅か2年後、オーストリア音楽コンクールで優勝し、注目を集めた。ルツェルンでのエドウィン・フィッシャーのマスタークラスの奨学金がその賞品であったが、これがバドゥラ=スコダの音楽家としての将来の基盤となった。
数年後、彼はフィッシャーのアシスタントとなり、フィッシャーの死後、ウィーンやザルツブルク、エディンバラ、シエナでマスタークラスの伝統を引き継いでいった。晩年も若い音楽家との身近な交流を保ち、主要なピアノ・コンクールの審査員を数多く務め、自分の貴重な時間と情熱を若い音楽家の育成に捧げ、熱心にアドヴァイスをした。彼が音楽について、熱く、そして、あの柔らかいウィーン風の声で語るのを聞いたことがある人は、それを決して忘れることはないであろう。
1949年、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとヘルベルト・フォン・カラヤンが、バドゥラ=スコダの並外れた才能に注目し、彼をコンサートに招くと、まさに一夜にして、この若いウィーン生まれのピアニストは世界的な大ピアニストとなった。ザルツブルク・フェスティバルに衝撃的なデビューを果たし、また、1953年のニューヨークでの初のコンサートは、たちまち、全席売切となった。それまでには前例のなかったことである。同じようなセンセーションが、数年後に東京でも起こった。彼のLPレコードは何年もの間、ピアニストとして発売枚数第1位を保持した。
それ以来、バドゥラ=スコダは主要な各音楽祭に定期的に出演するようになった。指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヨーゼフ・クリップス、カール・ベーム、ハンス・クナッパーツブッシュ、ヘルマン・シェルヒェン、アルトゥール・ロジンスキー、ロリン・マゼール、ジョージ・セル、サー・チャールズ・マッケラス、サー・ゲオルグ・ショルティ、ヴァイオリニストのダヴィド・オイストラフなどとも共演した。
しかし、バドゥラ=スコダはその演奏を古典派のウィーンの作曲家だけに限定することなく、バロックから現代音楽まで幅広いレパートリーを持つ。実際、彼はレパートリーを狭く絞って、それだけを専門にやることには否定的で、彼は指揮や作曲、音楽学の分野の仕事もやり、また、音楽に関する本も書き、その収集も行った。さらに、膨大な量の自筆譜や初版のマイクロフィルムに加え、歴史的な様々な鍵盤楽器をコレクションした。1976年、オーストリア政府はパウル・バドゥラ=スコダに「オーストリア科学・芸術功労賞」を授与して称え、1978年には「ベーゼンドルファー・リング」が贈られた。これは、ヴィルヘルム・バックハウス以来である。
彼は数多くのコンサートのため、世界中の音楽的な主要都市(ウィーン、パリ、ローマ、マドリード、ミラノ、東京、プラハ、シカゴ、ニューヨーク、ブエノスアイレスなど)、また、ワルシャワのショパン・フェスティバル、ジョルジュ・エネスコ・フェスティバル、エストリル・フェスティバル、ドゥブロヴニク・フェスティバル、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン・フェスティバルなどの主要な音楽祭にも定期的に出演した。さらに、リーズ国際コンクール、ミラノのディノ・チアーニ・コンクール、ブリュッセルのエリザベート王妃国際コンクールなど、主要な国際コンクールの審査委員会のメンバーも務めた。
LPやCDに、すでに膨大な録音を残しているにもかかわらず、晩年もレコーディングを続け、GENUINレーベルより「シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番、3つのピアノ曲」をリリース。さらに、モーツァルトの協奏曲の全曲録音も、自身の弾き振りでプラハ室内管弦楽団と共に進行中であり、2013年10月に「モーツァルト:ピアノ協奏曲第15番、第20番」を、2014年4月に「モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番、第25番」を、Transart classicレーベルよりリリースした。
2019年9月25日、ウィーンで逝去した。92歳の誕生日を間近に控えていた。